村上春樹〜『職業としての小説家』
ノーベル賞がスルーする作家、村上春樹の『職業としての小説家』には自分がどのようにして小説家になったかが書かれている。文中の「井戸を掘る」という表現や、その言葉の示唆することは「◯◯家」と言われる職業の人にはかなりイメージ出来るものだと思う。
「邪悪なもの、強烈なもの」を含有するストーリィー、話のなかでうごめくキャラクターたちの行く末に「書きながら付き合う」ためには、長期戦に耐えうる強靭な肉体が必要だと実感した彼は毎日のランニングを欠かさない。
それだけ「創ること」にはパワーが必要なのだ。
『走ることについて語るときに僕の語ること』で60歳になった彼が自分のタイムが伸びなくなったことをなかなか受け入れられないと述べる部分があるが、人とはそういうものかもしれない。今以上に老化し、衰えていく経験はまだ「したことがない」のだから。
ぼんやり見えている「自分の終わりの姿」。古武術家の甲野善紀氏が命題とした「運命はあるのか」ということへの彼なりの答えの出し方には納得できた。
「決まっているが、決定していない。」
このことを頭に置き、生きている「見知らぬ人たち」。地球上での彼らの存在を示す豆電球が、シグナルのように明滅している地図をイメージすることがある。
おそらく、村上春樹もその中の一人なのだろう。
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